嶋根善太郎さんを偲ぶ 〜全国事業連帯の基礎づくりに貢献〜

                     斎藤 嘉璋(元日本生協連常務理事)

 大学生協連が法人化総会を開催したのは1958年3月だが、その新学期、大学生協の全国共同仕入れ事業の最初の成果として独自開発の大学ノートが発売された。それを企画、実現したのは前年発足した全国事業委員会であるが、その責任者が東大生協駒場の嶋根さんだった。当時、早大生協の学生理事だった私は大学生協連常務理事として代官町(現、北の丸公園)にあった大学生協連に毎日のように通っていたので、時々顔をみせる嶋根さんとお話することも少なくなかった。当時の大学生協連には専務の杉本さんと庶務担当と事業委員会担当の3人しか居なく、その人たちの給料も遅配気味という貧乏所帯だった。嶋根さんは「専務の杉本君の給料位ちゃんと払うためにも、共同仕入れ事業を確立させたい」と話していた。
 この大学ノートの紙は北越製紙に別梳きさせた良質のもので、当時CO―OP商品という言葉は(地域生協もふくめて)なかったが、全国連帯のCO-OP商品の第1号と言えるものだった(戦前も戦後も生協の独自開発商品は存在したが、全国規模のものではなかった)。嶋根委員長のもとでの全国事業委員会は業界との紛争が続いた書籍の共同仕入れなどをふくめ生協間の連帯を強め、法人化して大学生協運動としての路線(比叡山大会以降の3つの柱)を確立しつつあった大学生協連の基盤作りに大きく貢献した。
 嶋根さんは大学生協連におけるそのような成果を評価され、58年11月設立の全日本事業生協連に事務局長に就任された。その事業連の事務局は東大生協から派遣された職員で構成されたが、そのことをふくめその後の全国生協の連帯活動に大学生協の果たした役割は大きい。私は60年に日本生協連に入るが、60年代に大学生協で活動したメンバーが各地で生協運動に参加することになるのは嶋根さんのような先輩の影響が大きかったと思う。
 嶋根さんには日本生協連と事業連が合併した65年以降は事業部の部下としてお世話になり、その後は東京の地域生協や東京都生協連の場でご一緒し、その間の思い出は尽きない。嶋根さんは最初のお付き合いのころから若輩の話に耳をかす温厚な方だったが、昨年5月に中野総合病院でお会いした時もそのイメージは変わらず、その1ヶ月後に亡くなられるとは想像もできなかった。心からご冥福を祈ります。

萩原 久利さんのこと

名和 三次保(前東京都生協連会長理事)

 萩原さんは1958年母校である東京経済大学の生協設立に伴い、専務理事として着任されました。
 62年から65年まで大学生協連幹事、68年から72年同常勤常務理事、71年より三多摩市民生協設立に参加、設立と同時に専務理事、77年東京都生協連常勤常務理事、79年から(財)消費生活研究所(現地域生活研究所)代表常任理事と多方面に活躍なされました。
 特に大学生協との関係でいえば、研究所の事業への関わりについて触れないわけにはいきません。
 大学生協連は、地域生活研究所の前身でもある生活問題研究所(生問研:せいもんけん)を68 年設立しました。
 当時大学生協連は、地域生協の設立や再建支援に取り組んでおり、生問研は全国の生協運動の歴史と現状・方向性などを研究テーマとしていました。
理事長は、野村平爾先生や福武直先生にお願いし、その後を引き継いだのが萩原さんでした。
 萩原さんが、研究所活動に積極的に関与したことは勿論、常に財政上の配慮を怠りませんでした。こうしたことは現在の研究所に引き継がれている大きな財産だと思います。

参考資料
○「大学生協の歴史と未来」(大学生協連発行):「書籍を積んで多摩の大学生協まわり」
○「まちと暮らし研究6号」(消費生活研究所発行):「東京の生協と(財)消費生活研究所の歴史」
元代表常任理事 萩原 久利さんに聴く

萩原さん寄稿記事.pdf

友貞安太郎さんのこと

                                               佐藤 俊夫

友貞安太郎さんが亡くなられ、斎藤嘉璋さんから訃報が入ったときは、先の会報に岡本好廣さんが書いておられるように、密葬後神戸沖に散骨されたあとで、ご焼香もかないませんでした。

 大学生協連創立25周年を記念して発刊された「大学生協の歩み」に、彼は「さとうとしお」のタイトルで私のことを書き遺してくれました。生協運動の同志として同じ釜の飯を食べたのは短い期間だったのに、大学卒業後生協を離れた私のことをずっと気にとめてくれていたのか・・・、いま読み返すとそんな思いが脳裏をよぎります。そのご恩返しもできないまま幽冥界を異にすることになってしまい、痛恨の極みです。
 青春時代の彼は九州男児で頑固一徹なところもありましたが、不正を許せない熱血漢でした。また、ロマンあふれるヒューマニストでした。彼が「この天の虹は豊かな未来への架け橋である」と信じて生協運動に飛び込み、生涯それに情熱を注ぐことになったのは、この根性だったと思います。
 彼がロマンチストであることを物語るエピソードは枚挙にいとまがありません。令夫人とのロマンスもその一つです。昭和32年夏、全学協の全国理事会が北大生協で行われた後、彼と二人で周遊券の期限が切れるまで網走、釧路方面へ旅行しました。貧乏で旅館に泊まる金もなく、もっぱら夜行列車を宿にして旅を続けました。その夜行列車の中で、彼は後年奥方となられた「澄」さんにラブレターを書いていました。人を愛してやまない彼の面目躍如たる一こまです。
 大学生協連の常務理事として友貞さんとご一緒だったのは、大学生協連が法人化される直前、1957年の頃です。生協のある大学は全国で40数校、売上高は10億円たらずでした。それから半世紀、友貞さんの流した汗が大学生協の発展に大きく貢献しました。苦しかったけれど実り多き人生だったと思います。どうかゆっくり休んでください。

友貞安太郎君を偲ぶ

岡 本 好 廣

1月8日に突然神戸の友貞君から電話があった。要旨は次のようである。「11月に腹部に激しい痛みがあって病院へ駆け込んで精密検査を受けたところ、肝臓癌をはじめ数カ所に癌が転移していて手の施しようがない、余命は長くて半年、3ヶ月がいいところだろうとの診断であった。退職後健康診断を受けたことがなく、酒ばかり飲んでいたので仕方がない。死んだら葬儀は家族葬にして、友人代表として竹本さん(コープこうべ元理事長・日生協元会長)にだけ出席して貰う。骨は神戸港から舟を出して沖合に散骨する。死後これまで資料を集め、書き留めてきたロバアト・オウエンと賀川豊彦について遺稿集を自主出版したいので、岡本さんからコープ出版に依頼して欲しい。明日からまた入院する。痛みがぶり返してきたので失礼する」と云って電話を切った。差し迫った自分の死を少しも取り乱すことなく、平然と話す態度に畏敬の念さえ覚えた。
翌日日生協の出版部長にメールで趣旨を伝えたところ、できるだけ努力しますとの返事を貰ったので速達で友貞君に連絡した。その後音信がないまま、3月5日に奥さんから電話があり、2月22日の早朝に亡くなり、2月25日に家族だけの密葬を執り行って骨は神戸沖に散骨したとのことであった。

友貞君とは1955年に大学生協連の常任理事になった時からの付き合いである。私は東京地連、友貞君は関西地連担当で3ヶ月に1度くらいの頻度で、今は日本武道館になっている代官町の事務所での常任理事会で顔を合わせた。その後彼は神戸生協から灘神戸生協(現在のコープこうべ)へ移り、常勤理事を経て日生協へ転出して一緒に仕事をするようになった。佐賀県出身で葉隠れ武士の気風をもつ彼はどんな場合にも自説を曲げず、一本気なところがあってよく人とぶっかった。その一例だが、彼は何度も現地視察をして『ロッチデイル物語』という本を出した。「ロッチデール」でなく、「ロッチデイル」が正しいと主張する。国際担当の大谷常務がROCHDALEはデイルとは読めないといっても自説を曲げず、それで通してしまった。それでも私の云うことは聞いてくれたので、神戸では彼の家に泊まり、もう少し協調するよう苦言を呈しながら呑んで議論したことを想い出す。2008年に「大学生協連法人化50周年記念想い出集」を編纂した時には、友貞君が丹念に保存していた多くの資料が大変役に立ったと思う。大学生協連創生期の功労者の一人である。

兄 大野 英のこと

大野 省治

 私の兄大野英が2012年7月18日89歳で亡くなりました。 
英(ひでし)は、戦時中学徒出陣で陸軍の航空隊に入隊し、幹部候補生試験に合格し見習士官となり、中国・南昌の日本陸軍飛行大隊の暗号通信係・中隊長として配属され、若くして陸軍少尉に任官しました。
 ポツダム宣言受託と敗戦に伴い、1年間捕虜生活を終えて、復員後三池炭坑に就職し労組執行委員に選出されて労働運動に専念しましたが、会社より解雇され、その後上京して東京大学生協に入協しました。
 東大生協のあとに東工業大学生協、慶応大学生協専務理事に就任し、その後名古屋勤労者市民生協に転じて、定年退職となりました。

 70年安保闘争で慶應義塾大学生協も揺れていた頃でした。当時専務理事だった大嶋茂男君が日生協に転出する話が進み、情勢がらみで学生から専務理事を選出できる状況にはなく、後任の人選が難航していました。大嶋専務は、選択肢が限られるなかで、進退窮まり、兄に相談を持ちかけたのでした。状況の見極めと判断が複雑でしたが、兄英は、総合的に判断し熟慮の結果、これを受託しました。大嶋君は窮余の一策として提起した専務人事でしたが、当時のことを「古武士のような実直さをもって、お引き受け頂いたことを昨日のことのように思い出します。単協の枠を超えた人事の強さであり、いまでもその伝統は継承されています」と述懐していました。

 兄の就任で大嶋君は日生協に異動し、日生協の初代関西地連事務局長を拝命しました。しかしその後、私の妻の乳がん発見と死去という予期せぬ事態に及び、全国消団連事務局長の退任を全国消団連顧問だった中林貞男(日生協名誉会長)に配置転換を願い出ました。そのために急遽大嶋君が東京へ呼び戻されるところとなり、全国消団連事務局長という激しく流動する注目の舞台へ躍り出ることになりました。
 兄英の慶應専務受諾が、人生の転機をつくる縁(えにし)となったに違いないと思っています。

佐藤 光博さんを偲ぶ

小林 剛(元早稲田大学生協本校書籍部店長)

 佐藤光博さんが本年2月13日に亡くなりました。77歳でした。

 佐藤さんは大学時代に北海学園生協の設立に関わり、その後上京し、早稲田大学生協・東京事業連合の主に書籍畑で活躍しました。
 佐藤さん自身は書籍部事業の全国連帯の場でも大いに活躍された方ですから、ご存じの方も多いと思います。僕自身についていえば、早大生協書籍部時代の店長が佐藤さん、という関係です。

 佐藤さんてどんな人ですか、と生前よく聞かれました。仕事の関係者が多かったですが。その際、僕はいつも「〝配慮の人″です」と答えていました。皆さん納得した顔をしていましたね。
書籍部時代の仕事にふれながら具体的に語ってみます。

 一つは組合員さんとの関係。
 書籍部では朝一番に入荷した本を棚に並べます。その際いつも注意されました。「本は棚から5ミリはみ出すように並べること。そうすれば組合員さんが取りやすいでしょう?」、「この本棚の本の埃取り掃除はいつやったの? 本に埃が付いているよ。掃除は週に最低2回は必要だよ」と。
 他に、レジでの接客対応、お店の入り口と建物の周りの清掃等。一日一日の仕事を非常に大切にしていました。「こうすれば組合員さんは気持ちよく来店できるでしょう」とは佐藤さんの常の弁でした。

 二つめ。いわばマネジメントに関わること。
 職員が良い仕事をした時は、必ず関係する人たちの前で直接〝ほめる″んです。これは本人にとって、スゴ~ク自信につながりますね。ただし、間違ったことをした時は、コッソリと本人に注意していましたね。

 かつて〝ロスの早稲田″と、ありがたくない名をもらった時がありました。実は僕自身が所属する本校書籍部が対象部門だったのですが(ロス率1.3%くらいか)。
確かその頃、佐藤さんが東京事業連合から本校書籍部・店長に復帰しました。経営上重大なロス問題解決のための人事でしょうか。
 ロス問題解決には一年半くらいかかりました(ロス率0.5~0.3%に安定)。が、それまで、まったく解決できないままでしたから、短期間での成果といえます。
 その間、佐藤さんは常にこう言っていました。「ロス問題解決に奇策はないよ。チームワークを重視し、〝当たり前のことを当たり前にやる″、そうすれば結果がついてくる」と。
いわば、上記2つの実践の成果だったと思います。

 最後の話になります。佐藤さんは若い職員を連れて、居酒屋でワイワイやることが本当に好きでした。しかし、決してみんなの座の中心で教訓を垂れる人ではなく、座から一歩引いて、ニコニコと若い連中の会話を楽しんでいました。
 人物に例えるならば、良寛さんですね。「(良寛は)羞恥の心深き人・・・(その口ぶりは)自らを高みに据えての垂戒の口調ではない」、とは僕の好きな中国文学の達人・入矢義高先生の言葉です。
 直接仕事の関係者ではないにしても、こうした佐藤さんの心深き〝配慮″に接した方も多いのではないでしょうか。

 善業を積んだ佐藤さん。きっと浄土の天国で安らかに、テレビの囲碁講座を前にして、碁を打っているんでしょうね。

 ご冥福を心からお祈り申し上げて、筆を置きます。

                                2012年5月   小林 剛

佐藤光博さんの略歴:

1934年(昭和 9年)5月21日 北海道札幌郡札幌村に生まれる。
1941年(昭和16年)4月    札幌村立第一国民学校入学
1947年(昭和22年)4月    光星学園中学校入学
1950年(昭和25年)4月    光星学園高等学校入学
1954年(昭和29年)4月     北海学園大学入学
1959年(昭和34年)2月    北海学園大学生協設立に参加      
1960年(昭和35年)3月    北海学園大学卒業
1960年(昭和35年)3月    早稲田大学生協入協購買部配属
1961年(昭和36年)3月    販売部主任
1963年(昭和38年)3月    書籍主任
1970年(昭和45年)2月    東京事業連合移籍 業務部(書籍)配属
1973年(昭和48年)2月    早稲田大学生協移籍 書籍店長
1975年(昭和50年)9月    本部配属  専務補佐
1988年(昭和63年)7月    東京事業連合 東京インカレコープ設立準備室
1993年(平成 5年) 7月    東京インカレコープ設立 理事会室
1995年(平成 7年) 3月    定年退職

■森定進著作集をご希望の方は、頒布価格1200円(送料込)にて送付致します。

(財団法人)地域生活研究所発行「生協運動に生きて」森定進の仕事

 東京都生協連は、2011年2月に創立60周年を迎えましたが、記念企画の一つとして、永く同会専務理事を務められた森定進さんの著作集がこの度6月10日に地域生活研究所より刊行されました。
 同書の市販予定はありません。友の会の方で入手希望の方は事務局迄お願いします。

森定表紙.jpg

【著作集あとがきより】
 このような著作集をまとめようという話は、著者の一周忌のころに持ち上がったものの、どことなく立ち消えになっていた。具体化したのは、昨年秋のことである。日本生協連資料室に籍を置いた編集委員の川上邦博が著作リストを整理していたことが分かったのが、そのきっかけのひとつである。著者が(財)地域生活研究所の前身組織である消費生活研究所の設立当初から長期にわたって常任理事を務め、元理事長でもありながら、これまでに記念誌のようなものを作成していなかったことも、この企画の遂行を後押しした。
森定家に保管されていた資料は編集委員の斉藤嘉璋が井口信治氏とともに整理し、一部を日本生協連、その他を大学生協連に寄託していた。川上はそれらの膨大な資料群を整理していた。また日本生協連資料室所蔵の雑誌類の著作リストが作成されていた。
(財)地域生活研究所では常任理事会において2010年度の追加的な事業として、この著作集をまとめることとし、その後の理事会・評議員会でご了承をいただいた。
研究所では斉藤嘉璋、名和三次保、川上邦博、林和孝の四名で編集委員会を設置し、早稲田大学と大学生協時代を斉藤が、その後の時代を名和と林が担当して、掲載論稿を選択した。そのさい、その時々のトピックとなったテーマを取り扱ったものを優先し、組織運営の細部にわたって論じているものや、外国生協の報告などを省いた。
日本生協連資料室の高瀬ひとみさん、三崎敬子さんに協力していただき、研究所の河合邦子さんにコピーの労をとってもらった。
本書が生協およびその活動にどのように役立つかは、読者諸賢のご判断にまつほかはない。とはいうものの、編集委員会としては少なくとも、筆者が戦後の50年代から日本の生協運動の中心的な流れの中に身をおいた立場からして、自ずと戦後生協史を振り返るときの貴重な資料(あるものは一次史料といえる)となっていると考えている。

2011年5月
                『生協運動に生きて―森定進の仕事』編集委員会
                 斉藤 嘉璋  名和三次保 川上 邦博 林 和孝(事務局)


杉本 時哉さんを偲ぶ

                                          斎藤嘉璋
 大学生協連の初代専務理事・杉本時哉さんが2月28日に逝去されました。大学生協連は1947年に全国学校協同組合(全学協)として創立されますが、戦後の混乱がつづき、連合会として機能を回復しはじめるのは杉本さんが常勤するようになった55年以降です。
杉本さんは当時、全学協に会費を納めてくれたのは18校にすぎなかったと語っていますが、そのようななかで各地の大学生協の活性化と連合会への結集あるいは設立支援と大変な努力をされました。
 杉本さんの苦労が実り56年に東京地連に事業委員会が、57年に全国事業委員会が発足し、歴史的な比叡山大会(教育環境整備運動など3つの柱=大学生協運動の路線確立)が開催されます。さらに58年には全学協は懸案の法人化を達成し大学生協連になり、杉本さんは初代専務理事になります。
早大生協の学生理事だった私はこの年から大学生協連常務理事として九段の学生会館で杉本さんとご一緒することになりました。杉本さんの前に全学協の再建に取り組んでいた森定さんから杉本さんの苦労は聞いていましたが、法人化後も苦労は続きました。近衛師団兵舎あとの事務所に2人の事務局と学生役員という所帯はいつも金欠で、杉本さんも片道切符で全国行脚(集金をかねた指導)をしていました。その後杉本さんは発足まもない労金協会に移動され、60年から田中尚四さんが後任の専務理事になります。杉本さんの全学協から法人化への5年間は実質的に現大学生協連の創業期だったと言えます。
 私は60年に日本生協連に就職しますが、職場の新橋労金会館では労金協会の杉本さんとまたご一緒することになり、その後早大生協専務理事時代は早大生協OB会会長としていろいろお世話になりました。最近では早稲田大学の先輩後輩の集まりである勉強会などでもご一緒する機会がありました。
 杉本さんには学生時代から生協運動の在り方をはじめ社会哲学から実践論までいろいろ教えられました。議論好きは有名でしたが、じっとしていられない行動派でもあり、身体にあちこち支障が出てからもそうでした。肝臓ガンで入院されたと聞いて病院に見舞いに行くと看護師さんが「一時帰宅で不在です」と苦笑していましたが、ベッドにじっとしていられなかったのでしょう。そのガンが転移しての急逝でした。
 最近、杉本さんが大変喜ばれていたのは大学生協連法人化50周年想いで集「大学生協の歴史と未来」が発刊されたことです。杉本さんの原稿は眼が悪くなられたため私が代筆したものですが、私としても最後の御恩返しでした。「想いで集」には杉本さんの全学協時代の活動と想いが込められています。お読みになって今は亡き先輩を偲ぶとともにその遺志を考えていただきたいと思います。

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友の会事務局:『大学生協連法人化50周年想いで集「大学生協の歴史と未来」』(コープ出版)は、送料込み2000円で提供しております。ご希望の方は、ユニコープ友の会事務局(03-5307-1130)大久保までお申し込みください。

遠藤 捷彦さんを偲んで

                              大友弘巳(ユニコープ友の会前副会長)

 今年7月まで、長く世話人や幹事としてユニコープ友の会の活動にご尽力いただいてきた遠藤捷彦さんが、去る10月28日に逝去されました。
享年68歳とまだ若く、真に惜しまれます。
 遠藤さんは、1060年代初めに茨城大学の学生として生協設立運動に参加され、卒業後も残って、様々な困難を跳ね返して設立を成功させ、以後専務理事として活躍され、茨城大学生協の発展の基礎を築くために貢献されました。
 1970年代に入って地域生協設立支援に取り組み、71年には水戸市民生協の創立に参画し、専務理事として同生協の急速な発展に努めると共に、1980年代半ばには、栃木や群馬の各生協と共に事業連合「北関東協同センター」の設立に参画、次いで、水戸市民生協と茨城県南生協の合併によるいばらきコープの発足、1990年代には、東関東5県の生協の事業連組織の呼びかけに積極的な役割を果たし、コープネット事業連合の設立のために尽力されました。その後、茨城県生協連の会長としても活躍されるなど、茨城県の生協運動の発展と生協間の連帯の発展のために働き続けてこられた生涯でした。
 愚直なまでの誠実なお人柄と、人の話に広く耳を傾ける姿勢が、信頼され、敬愛されるリーダーとしての力の源泉となっていたものと、友人として感じています。
 生前のご活躍とご厚誼に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。

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地域生活研究所森和孝様より「森定進著作集」に関する情報を頂きました。
2011.04.01
斉藤嘉璋様より「杉本時哉さんを偲ぶ」の寄稿を頂きました。
2010.11.28
大友弘巳様よりの「遠藤捷彦さんを偲ぶの寄稿をアップしました。