OBOG訪問:あの頃のこと、いまの暮らし、そして後輩へ!

伊藤次栄 1995年退職 (退職時:「奈良市民生協」副理事長)

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大学生協との出会い(1945年〜1956年)

 戦争が終わったのは11歳の時だった。男5人兄弟の末っ子だった私の兄たちは全員兵隊に取られた。次兄はニューギニアに戦死した。坊さんの開けてくれた遺骨箱には石ころがあるだけで骨をみることが出来なかった。

奥深い山形県の13 戸しかない寒村に暮らしていた私は、町の高校入試に落ちて、無試験で入れた基督教独立学園という高校に入学した。創立後3 年目に当たる 1950年入学の第三期生だった。全校三学年で合計17人という日本一小さな高校だった。築30年近い鈴木校長先生の自宅が校舎であり、半地下1階に木工所、地上1階に教職員の住居、図書館、食堂、2階に3つの教室があるだけの粗末なものだった。
 高校を卒業後上京して上野の町工場で製品の出荷作業の仕事をしたが、田舎の校長先生が心配して、武蔵野精神医学研究所を紹介してくれた。しかし五人の職員で読書会をしたことが不都合だとして退職を命じられ、駒場生協のアルバイトの職を得た。島根善太郎さんが専務理事であった駒場生協購買部には安濃さんが主任、菅野さんが現場監督で、島根さんの奥さんもおられました。
アルバイトではなく生協に正規職員として就職できないかと思い、駒場生協を受けたが、落ちてしまい、次に法政にも応募したが、ここも落ちてしまった。また本郷生協も受けたが、ここも落ちてしまった。当時の駒場の責任者だった島根さんからも「なんで落ちるのかわからん」と訝った。そこで早大生協を紹介され、当時の下田専務理事にお会いし、面接したところ、「失業しているのだったら、明日からでも来い」というので、ようやく早大生協に就職した。

東京の大学生協の頃(1956年〜1964年)

 早大生協は、当時4号館地下(文学部)にあった。当時、早大生協の書籍部門の立て直しのために駒場生協から主任として山岸さんが来ており、一緒に書籍の仕事をすることになった。当時の早大生協は、大変な負の遺産をもっていた。教員の執筆された教科書を大量に印刷出版したが、理由は定かではないが、その教科書が膨大な不良在庫として残ってしまった。その対応に迫られて学生時代に森定さんと一緒に活動していた片野さんも早大生協に戻り、その在庫処理と資金繰りと負債償還に当たっていた。また斎藤さんも学生理事として教務部などとの交渉に当たられていた。私も真冬の寒いなか、外のテントでテーブルを並べてその本を1冊50円か60円で何日も販売していた。その当時の生協では、先生の書かれた本を出版し、生協で販売するということはしていなかった。早大生協は、印刷所をもっていたことから、製版印刷して生協で販売したのだと思う。
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それからすぐに58年5月に東京農大生協に異動となった。当時の農大生協は、7月8月は大学が休講、生協職員も休みであり、給料は半額支給だった。それは全く聞いていないことだった。当時早稲田大学生協に紹介された取引先からの仕入れで売り上げが何倍にもなったこともあり、4月だけの売り上げで、3か月分の売り上げになり、ボーナスを払っても、十分な業績のはずが、どうして夏休みの給与が半額なのかをとても理解できなかった。その頃、生協が法人格を持っていないことから、大学執行部が法人格を取得するために生協を一旦解散すると通告し、職員は一斉に解雇となった。しかし法人化した生協からは私への採用通知は届かなかった。
 それで、森定さんと相談し、一旦早稲田大学生協への移籍とした上で、59年12月に大島さんが専務で上条さんが部長の慶応大学生協に異動した。慶応大学の日吉と三田で書籍主任として働いた。私は多少本が好きだったこともあったが、取り扱う書籍に私の知っている教員が書かれた本が結構あることがわかった。

私の高校には先生が7名いたが、2名が東京大学出身で残りの方も御茶ノ水や師範の出身者であった。現在も100名位の生徒がいると聴く。ここは内村鑑三さんの弟子の開いた学校だった。夏休みと正月休みになると東京から先生方が来校して3週間前後に渡る連続講義が行われた。校長の鈴木先生は、東大物理の出身、教頭の西村先生は東大化学の出身だった。夏の連続講義は、矢内原忠雄教授らの授業があり、とてもわかりやすい授業だった。こんな先生方の授業を受けられることのは大変有りがたいと思った。
 大学生協で本の扱いが多くなると教員とのつながりも多くなり、高校時代に本を通じて知った先生方を思い出し、そのつながりで、とても仕事がし易くなった。慶応大学には、高校時代に一生懸命に読んだ本の著者がおられ、私の高校のこととその本のことを話し出したら、大変喜んでくれ、お互いにこの奇跡的めぐりあいに驚くばかりであった。先生のお名前も本の書名も今は思い出せないのが残念だ。
 その後62年、東京事業連合企画調査室に配属となり、田中専務のもとで、4大学生協(東大、早大、慶應、法大)統一の学生生活家計実態調査と書籍紹介のための読書誌「リーブル」を創刊することを提案した。学生実態に関する調査は、文部省がやっていたが、大学生を対象とする生活調査はやっていなかった。とくに地方から上京し下宿して大学に通う大学生の生活費実態調査でしかも東京の4大学の生協による一斉調査はどこもやっていなかった。
 この統計調査に協力してくれたのが、東大の大型計算機センターだった。福武先生との関係もあって協力的だったのかもしれません。ここで数理研究所を紹介していただき、指導をうけた上で、統計分析、解析方法など三、四冊の本を渡され勉強しなさいと言われた。当時各会員生協の経営がうまく行っていない状況のなかで、「学生生活の実態調査にどのような価値があるのか、まず各店舗でのGP(荒利益)を確保する手立てが先決」という批判に晒されたが、「価値ある調査だ」とその時の事業連合の事務局長であった畠山さんも支持してくれた。また田中専務理事も「このような調査は今後重要になるから、やるべきだ」と発言され、全員一致で実施することを決定した。

63年には、大学生協に学術書を紹介する情報誌があっていいはずだと思い、4大学生協協同で発行する読書情報誌「リーブル」の発刊を提案した。まず一面には、東大の大内兵衛(経済学)先生に「伝記を読め」という文章を、二面には大河内一男(社会政策)先生に原稿を書いて頂いたが、発行した数日後に大河内一男先生が東大総長になったことから、創刊号2000部は1日で売り切れとなった。追加で2000部を作ることには無論反対はなかった。その後京都への異動となり、2号は企画立案しただけで、後任に任せることになった。その後リーブルがどのような経緯を辿ったかは私にはよく知らない。

京都の大学生協の頃(1964年〜1977年)

 64年に京大生協書籍主任として京都に異動した。全国課題としての同盟化(事業連合化)の推進とともに京都地域の会員生協の立て直しが焦点だった。稲川さん(連合会常務理事)から誘われて会食した際に「あんた京都はどうか」と言われた。「いや私はいつでもいけという処にいく決意です。私ひとりで行くんですか」と尋ねたら「いやおれも行くんだよ」ということだった。稲川さんとは、一時早稲田生協でも一緒だったが、当時多分稲川さんは東大生協労組委員長、私は早稲田大学生協労組委員長だったというご縁もあって京都に赴任することには些かの抵抗もなかった。

京大生協書籍に異動となってから教員が寄稿する書評誌:「書評の特集」(50頁:1000部)の発行を提案した。創刊号は無料、第2号から1部10円で発行したが、発行後の部長会で、「10円では採算割れではないか。書籍部は大赤字なのだからその克服が最優先課題だ」との強い批判が寄せられた。しかしある部長さんが「生協の機関紙は配布してもゴミ箱に捨てられる部数の方が多い。しかしこの書評誌は売り切れたわけだから、有用性があるということではないか」との発言があり、次号も10円で発行されることになった。
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教員、助手、院生らによる書評誌創刊号は「講座哲学」の特集とし、牧二郎先生(物理学)に原稿を頼んだところ、快く書いて下さり、「書評の特集」の筆頭文章となった。数ヶ月して、牧二郎先生が書籍部に来られ、「実は「書評の特集」に掲載した文章が岩波書店から出版する「講座哲学」に掲載されることになったので、諒承してくれますか」ということだった。このお気持ちとして「講座哲学」50冊の献本を頂くなど、牧先生の大変良心的なご配慮に感謝したことを今でも記憶している。

当時、京都大学は、大学紛争と学生運動の左派どうしの抗争のなかにあった。京大生協は、書籍で何を売るのかを巡って、批判の矢面に立たされ、書籍の品揃えを決める職場会議が毎週延々と行われた。それは、当時所属する17名職員それぞれが支持する党派が拮抗しており、無党派であった私が、その選書を左右する状況になっていたからだ。そこで畳二畳ほどのテーブルを持ち込み、両派の推薦する書籍を並べることとして、学生からリクエストを募り選書することを提案した。しかしスペースに限りがあることから、「毎週、売れ行きを調べ、売れなかった場合はその本を外す」ことを条件に50~60点を並べて販売することにした。生協は一般の書店とはちがい、学生を組合員とする組織である以上、その思想信条の違いで本を差別してはならないと思ったからだ。この時、一番売れた本が羽仁五郎の「都市の論理」だった。一般書店では品切れの状態だったので、平積みで販売していた京大生協の評価を高めることに繋がった。
 京大生協から京都事業連合を経て、71年に増田さんが専務理事だった龍谷大学生協に異動した。そこで驚いたことは、京大の助教授や定年退官された先生方が龍大で教鞭をとられ、私が存じ上げる先生方が沢山おられたことだった。お陰で教科書の取扱は勿論、副読本や推薦書籍などを品揃えできた。龍大の最寄り駅深草の側に教員のよく集まる居酒屋があり、増田専務と良く通った。

奈良市民生協・共同福祉施設の頃(1977年〜2010年)

 1977年に稲川さんが、滝川さんらとともに設立した奈良市民生協に移籍することになった。私には地域生協をやってみたいという思いがあった。移籍時に専務理事だった増田さんのもとで常務理事を拝命し、増田専務が亡くなられた87年から専務理事を引き受け、その後滝川さんに引き継ぎ、60歳で退職した。
 今後の地域生協の役割として広い意味での「安心・安全」を貫く視点から、高齢者福祉事業が大きな役割になることは自明との思いから、4年余りの準備期間を経て、98年「あすなら苑」(協同社会福祉施設)の設立と運営を始めることにした。当時は、国も地方自治体も相談窓口もなく、すべて手探りのなかでの設立だった。漸く2000年に介護保険法ができて、行政との調整、相談窓口の体勢も整い、10年掛けてある程度の軌道に乗せて、やっとバトンタッチできるようになった。その後着実に成長発展し今年2015年には15の事業所をもつ協同福祉事業となった。

いま、振り返って思うこと

私は、これまでどんな組織にも属することなく過ごしてきた。基督教の学校を出ながら、クリスチャンにもなれず、またマルキストにもなれず、政治組織への関与も持たなかった。無党派として生きてきたのは、自分流の好き勝手な生き方しか自分を活かせる術がなかったからだと思う。それはある意味で孤立する辛い体験もあった。
このような姿の原型は、あのあばら屋の高校1年生の1年間、教頭西村先生による吉野源三郎の「君たちはどう生きるのか」を副読本とする社会科の授業だったかも知れない。それは、毎週生徒が与えられた頁を音読し、言葉の意味を知り、辞書を使うことを教えて、その後に感想を書かせ、その感想について討論するという授業だった。いまから思うと西村先生は、非基督教徒哲学者の吉野源三郎「君たちはどう生きるのか」とプロテスタント無教会主義者の内村鑑三「後生への最大遺物・デンマルク国の話」を対比させることによって、一年間かけて、世界観や人生観、価値観の理解を深めさせたのではないかと思う。私はそれ以来吉野源三郎が編集長を務めていた岩波書店の「世界」の五十年来の読者となってしまっていた。
この高校時代の学びの場とその体験がその後の人生の原点になったのかも知れない。

インタビューを終えて

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2月21日、奈良大和西大寺に伊藤次栄(つぎえ:愛称じえい)さんを尋ねた。伊藤さんをよく知る前京都事業連連合書籍部の寺尾正俊さんにも同行して頂き、インタビューに加わって頂いた。
伊藤次栄さんは、早稲田生協書籍部の先輩と伺ったが、経歴からは想像できない秘められた原点が高校時代の授業体験にあることを知った。ともすると時代に流される青年期にあって、自らが学び考え行動することの価値観を大切にしてそれを生涯に渡って貫き通した先輩のことばを聴くことができた。
同時に伊藤次栄さんの歩みを知って、大学生協の書籍事業の発展の軌跡をも垣間見る思いであった。本を読まなくなった学生を嘆くことは容易だが、それをそのまま放置することの危うさを見透す取り組みが不可欠であることを痛感させられた。
教科書を音読させて、辞書で言葉とその意味を知り、自らの感想を発表させ、感想についてお互いに論議するという教育姿勢と授業手法は、人が生きて行く上でなくてはならないリテラシーを育む場に他ならない。1991年以降大学から消えてしまった「教養教育」の復権に繋がる試みではないかと思う。社会科をなくした高校と、専門教育に走る大学の授業と教育のあり方をも再び問う機会になってしまった。本当にありがとうございました。(大久保厚記) インタビューア:大久保厚・寺尾正俊

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小林 敏男 1993年退職  (退職時:早稲田大学生協)

小林敏男.jpg早大生協OB 会(2012年10月)
【生まれと勤労奉仕】
 1932年(昭和7年)6月5日、千葉県銚子市生まれた。九人兄弟の下から三人目だった。女児が多く男児の次男だった。兄は池袋にあった城北弁護士事務所所長だった。
家業は、洋服屋だった。叔父達が事業を失敗し父がその負債を一身に負い、再建に尽くしたが、昭和16年50歳で亡くなった。
 終戦の時は中学1年生だった。その夏に生徒動員を受けて、勤労奉仕先である人間魚雷:回天を製造する横浜ヨット(現:横浜ゴム)でグラマンによる機銃掃射を受けて、気を失い死んだかと思う体験をした。

【戦時下の惨禍】
 忘れられないのは、2回遭遇したB29による銚子市街への爆撃と機銃掃射である。3月10日は、あの東京大空襲で使い切れず、残余の焼夷弾による空襲であり、7月20日空襲では、市街地の中心部が狙われ、焼夷弾で実家は延焼を防ぐために犠牲となった。3月空襲で始めてB29後尾銃座から低空で機銃掃射をするアメリカ兵士を見た。人を殺そうとするその兵士の顔が真っ青だったことをいまでも覚えている。
 彼らは、利根川護岸に避難していた非戦闘員である市民を低空飛行で無差別に掃射していた。38個の小爆弾をもつ焼夷弾が炸裂し、実家から逃れた市街地で背中に焼夷弾が直撃して倒れていく牛の姿も忘れられない。玉音放送は実家の土間で聞くこととなった。
 終戦後直ぐの8月23日未明房総半島を縦断するアイオン台風が到来し、7月空襲で梁の崩れた実家のぽっかり空いた屋根越しに上陸した台風の眼というものを祖母とともに見たことを覚えている。戦後直後は食べるものが一切なく、空襲で被弾火災した缶詰会社から焼けて温かい缶詰を拾い、貪って空腹を癒したことも忘れられない。

【入学以降生協との出会い】
 1951年(昭和26年)4月、早稲田第二政経学部に入学。東京学館雄飛寮(雑魚寝300人収容)の臨泊生として入寮した。日本橋に潜水艦元艦長が経営する木工所で木材裁断用の大型円形刃(直径150センチ)を運ぶ仕事(日給300円)で学費を稼いでいた。当時の学館の館費(入寮費)は月120円だった。当時の自治会は、日雇いで映画のエクストラ出演など斡旋しており、二学期から学館自治委員に立候補し、アルバイト斡旋などの厚生担当を担当することになった。
入学してから早大学生厚生会に入会して、アルバイト集団として理工、政経、法学、文学の学生が中心にパンや牛乳を製造・販売し、生計を立て、学費を稼いでいた。入試問題の解答を作成して、受験生に有料で買って頂き、活動費にあてていた時期もあった。その後早大学生厚生会は、早大生協と組織統合した。
 学生厚生会の活動については、山下進さんが中心となって、「パンと青春」としてまとめて、自主出版した。冊子は早大生協に寄贈した。
 早大生協との関わりは1952年(昭和27年)夏に全学協(現:大学生協連)の常任委員だった森定さんから「明徳館(全学協第12回全国大会:同志社)に一緒に行こう」と誘われことからである。当時東京学館には食品と食堂をもつ生協があり、全学協の事務所が本館の2階にあった。生協理事会にて大会派遣の費用が議決されて、京都に向かうこととなった。
明徳館大会.jpg全学協第12回大会(同志社大学明徳館前記念撮影(1952年)
【入協・政経地下食堂時代】
 1955年(昭和30年)、岡本さんと面接して早稲田生協に入協した。最初に食堂部門に配属された。勤務した政経学部3号館地下食堂は7名の職員と2名の栄養士で運営され、栄養のある献立を安く提供し、人気が高い食堂だった。当時、米は配給制であり、板橋の地域生協の自由生協から融通してもらい、一日1700食を提供するまでになり、施設拡充運動をすすめて、地下から大隈講堂横にあった木工所跡地に大隈横丁食堂が開店した。食堂経営のために東大生協から移籍された稲川さんが食堂経営に当たることとなった。
 地下食堂の時代は、五合釜でご飯を炊いたが、狐色のお焦げご飯が評判となった。これは後に早大5.8事件(官憲による学生弾圧事件)50周年記念に集まった当時の学生からも感謝の言葉を頂いた。当時、地下食堂の上にある政経学部の教室に「カレーのにおいがたちこめて学生がガヤガヤと落ち着かず、授業にならなかった」と平田富太郎先生が述懐されておられ、私は申し訳ない気持ちを持ち続けていた。生協食堂を地下から地上へは役職員の念願であり、組合員の総意でした。
僚友2.JPG片野さん(右)と往時を語る小林さん

【食品部時代の思い出】
 一年半ほどして、食品部門も兼務し、いま俳優となった伊東四朗さん(伊藤輝男)と、昼休みに牛乳を買う学生に「いかに牛乳瓶の紙蓋を早く開けるのか」を競い合ったこともあった。木箱に詰められた牛乳は可成りの重量であり、筋肉が鍛えられることとなり、卓球の腕を大いに上げることにも繋がった。
 58年頃に早稲田生協業務部ができて業務部長となった。学生ホールの移管を運動したりしていた。

【63年以降の大学生協連時代】
1963年に今井隅田さんが教育大生協から早稲田生協に移籍して、私は神田界隈の巴ビルに事務所をもつ大学生協連に出向することとなり、森定さんが責任者だった経営指導委員会事務局に籍をおいた。その頃の共同仕入は塚崎さんが担当されていた。
 その頃は、各地地連翼下の会員生協を訪問し、経営状況、経営問題を把握し、必要な助言をするという業務だった。前任者は木原さんだった。東北大をはじめとした東北の各生協、九州六県の生協にも鈍行列車で訪問した。その頃は、岩手の加藤さん、埼玉の大友さんに懇意となった。中小規模の大学生協の苦労をはじめて見聞して、その活動には頭が下がる思いを覚え、また学生や院生の素朴で献身的な姿にとても感動した。

【68 年以降の早稲田理工時代】
 1968年に早稲田生協に戻り、理工大久保キャンパスの生協を統括する支所長となった。この頃には総務課長だった片野さんにはお世話になった。
 理工キャンパスでも学園紛争が起こっており、 生協の入館する56号館は、研究に必要な資材に危険を伴うものが少なくなく、緊張の日々を送ったが、暴力学生の入構を教職員、学生、院生とで団結して阻止する行動に参加した。
69年学バスs.jpg学バス値上げ反対闘争(1969年)
【78年以降の特別事業部の時代】
 72年頃に練馬生協の経営支援に入り、五年程勤務した。78年頃に早稲田生協に戻り、現在は重要な事業になってきた大学マーク入り商品、記念品、卒業アルバム、大隈講堂記念品の開発を特別事業部として手掛けて、開設された西門館に移り、店舗外の事業を開発する部門を担当した。81年に共済開始に伴い、西門館に薬品などを扱うとともに「共済健康センター」を立ち上げ、共済活動の拠点となった。

【後輩達へのメッセージ】
1993 年定年退職後、厚生年金基金受給者友の会に加入し、3年程経ってから、長野佐久病院見学の折、若月俊一先生の講演と質疑を聴いて、「60歳を過ぎたら、身体にプレッシャーをかけない」ことが大切だと思い、以来今日まで「何事もほどほどに無理をせず」を生活の指針にして暮らしております。

定年退職の後も契約職員として、早稲田生協にお世話になりました。改めて本当に有り難いと感謝しております。ありがとうございました。
乾杯 小林.jpg早大生協OB会乾杯音頭(2012年10月)

編集後記

 午後2時から5時過ぎまで、ご自宅近くのレストランでお話を聴くことができた。お互いに耳が遠くなり、聞き取れないことを何度か聞き返しながらのものだったが、しかし人間の記憶のすざましさを垣間見るインタビューだった。
 人間魚雷「回天」を製造した横浜ヨットでのグラマンの機銃掃射、銚子の実家を襲った二度にわたる銚子空襲、そして無差別機銃掃射を受けたB29後尾銃座のアメリカ軍兵士など、その瞬間を切り取った鮮明な映像が残っているにちがいない。その映像を呼び覚ましながら語る語気を伝えることができなかったのが残念でならない。
 小林さんは、練馬生協の5年間の苦労について語ることはなかった。自分の意思通りに物事を動かすことはできないことを承知の上で、しかし悔しく仕方がないというお気持ちをいま尚持つ続けているのだということが手に取るように感じることができた。
 しかし練馬生協の松尾光芳理事長の描く都市計画や地域社会の参加のあり方に感銘したこと、いまでも続く新宿三丁目にあるジャズ喫茶「どんじゃか」(「呑者家」)での旧友との飲み会のことなど、記事には書けなかったが、小林敏男の生き様を感じることができた。やはりどのような境遇にあったとしても、人の記憶は、最後には人との関わりなのだということを肌に感じるインタビューだった。ありがとうございました。(インタビューア 大久保 厚)


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1999年定年退職:本田月男(退職時:大学生協連)

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1 退職前後の頃

 99年3月に定年退職したが、91年に連合会へ移ってからは、主に福祉推進本部で共済に関する厚生労働省との折衝、勉学援助制度の設計と認可、九州復帰に伴う九地連会員調整、設立支援などで全国の会員生協を訪問することが多かった。その後、阪神淡路大震災支援とボランティア支援などで、98年に設立される農山魚村と都市を結ぶネットワーク組織であり、間伐材を使った割り箸などの環境活動組織「JUONネットワーク」設立も関わることができた。特に現地で行われた設立総会や「大学の森」購入交渉などは徳島での楽しい想い出である。
 また91年に和解をうけて「九地連」会員生協が復帰し、まず仕入機能を統合する九州事業連合を結成するが、会員生協理事会と地連、連合会との関係は、これを契機にスタートするという段階だった。九地連会員生協理事長や大学関係者への訪問で面談し、会員生協の現況把握と必要な対応を連合会として行うことが必要だった。合わせて生協設立支援も担当して、島根大生協の設立(98年設立)の際には、大学関係者の集まりにも大内会長と同行して、会長の言葉を通して大学生協とはどのような組織なのかを説明して頂くことができたが、やはり大学関係者や生協理事長からの大内会長への信頼はそれはそれは絶大なものだった。

 連合会に来てからの最初の仕事は、松本進共済部長や高橋一雄さんと一緒に学生福祉基金による扶養者死亡後の学生の勉学援助制度の設計だった。当時学生総合共済では、事故による扶養者事故死亡による学業継続支援を保障していたが、病気死亡は対象外であったために、共済とは分離した対応と仕組み、財源確保が必要であり、制度設立には多様な意見や反対などがあったが、なんとか厚生労働省の認可も受けて、スタートできた。当時の認可課長補佐の娘さんが、ある国立大学の学生であることを知り、その大学の生協の共済などの取り組み事例なども紹介したりした。その後課長補佐から直接認可OKが出たときはとても嬉しかったことを覚えている。

2 生まれと入協までの頃

 1938年(昭和13年)愛媛県長浜町生まれ。国民学校1年生の時に終戦を迎えた。戦時中は、爆撃機の投下爆弾の爆風で地面に叩き蹴られた体験をもつとのこと。その後地元で高等学校を卒業したあと大学受験をめざして1957年6月上京した。親からの一切の援助をもらわないことを誓って、住み込みで暮らし、仕事で学資を得ることができる魅力もあり、浅草にあった新聞配達所でアルバイトをすることとなった。
 ある日、私の配達する新聞に東大生協職員の採用募集があり、応募者24名のなかから採用されて、最初に食堂に配属されることとなった。
 当時東大生協は、1952年以降、本郷と駒場では総代会と理事会が分離・運営されており、本郷は塚崎宏さんが、駒場は嶋根善太郎さんが専従専務だった。1957年といえば、比叡山大会として有名な全学協10回大会が行われ、後の大学生協の基本路線となる「教育環境整備運動」の推進を決定する年である。
 その当時、新聞配達を行う大学生の同僚から、東大生協に就職すれば、飯がタダで食えるという情報はあったが、塚崎専務との面談で生協のことを尋ねられた時には、「生協のことは全く知りません」というしかなかった。食堂に配属されて一番嬉しかったのは、カレーライスを毎日食べられることだった。しかも田舎では決して味わえない味だった。食堂のおばさんから「そんなに毎日食べたら、身体が黄色くなるよ」と言われる程、飽きずに食べても美味しかったことを今でも思い出す。

3 東大生協の頃

 58年から食品部に異動。55年五月祭から販売を開始し、学内教職員に提供していた10円牛乳の配達業務を担当した。前任者迄の200万円程代金未回収があり、未収金の回収をすることが最大の職務だった。大学の事務所と研究室を再三再四に渡り訪問してほぼ全額を回収することができた。
 60年安保の時は、組織宣伝部で教職員相手の組織活動と共同購入を担当した。昼間は組宣部員として教職員とともに国会請願に行く一方で、夜間は59年に入学した中央大学法学部の学生としてデモに参加するという毎日だった。
 組宣部の頃は、正月用品や日用品の協同購入をしていたが、当時部長だった鈴江さんから、教職員対象の事業強化のために当時パン工場などを建設して事業を飛躍的に伸ばしていた灘神戸生協への研修機会を作って頂き、学ぶことができたことがとても嬉しかった。その後農学部店長(当時は主任)になったわけだが、農学部は、購買・書籍・食堂という生協の全ての業務を担当することができた。いわば単協業務のすべてに関わることができたわけである。組宣部と農学部の体験がその後のキャリアとして極めて大きな財産になった。

 63年に東京事業連合の前身となる「東京同盟体」として大学生協連東京支所を結成することになるが、東大生協もこれに伴いこれまでの仕入部から業務部に組織替えした。部長伊藤久美滎さんのもとで、業務主任として仕事をさせて頂いた。一番記憶にあるのは、当時キリンレモンを発売していたキリンの担当セールスマンである。後に聴くことになるのだが、上司からは「東大生協との契約をとる迄は、会社に出勤するな。東大生協に出勤しろ」と言われたらしく、毎日生協本部の前で私の出勤を待っていたのだった。これには参ってしまい、五月祭でテスト販売を行うことにした。これがキリンレモンとの最初の取引となった。
 苦い想い出は、書籍取次店との取引停止のお願いにK書店に行ったときだった。当時東大書籍部は、神田村にある7つの取次店から本を仕入れていたが、これを人文系の鈴木書店と理系の西村書店に集中させ、同時に東販との総合取引に変更する政策を打ち出し、取引をやめるために取次店を訪問することとなった。社長から「いまの東大生協があるのは誰のお陰だと思っているか!恩知らずめ!」と罵倒された。いまではあたり前である「正味」の一本化は、ここから始まったわけだが、この時程、素人の強さと怖さを感じたことはない。

4 大学生協連東京支所(東京事業連合の前身)の頃

 64年4月、前年に東大、早稲田、慶應、法政、理科大によって設立され、大学生協連と東京支所が出資して建設した2階と3階に職員寮(100名)をもつ事務所を板橋区南町(200坪)に構えた大学生協連東京支所に移籍した。
 当時は、東大助教授であった林周二の「流通革命」(中公新書)が流通業界を賑わしていたが、大学生協では、この流通環境の大きな環境変化をうけて、京都を中心として大学生協を地域単位で単一化すべしとする「単一化」か、東京を中心として会員生協の主権を前提にした「同盟化」かのいわゆる「同盟化論争」が行われていた頃だった。私は業務部門の責任者としてアメリカの流通理論である「チェーンストア理論を日本に持ち込んだ渥美俊一の「ペガサス理論」を必死で勉強した。
 この頃一番嬉しかったことを紹介したい。当時新入生向けにオリジナル化して供給していた学生服をメーカーとの直取引に変更するに当たり、販売店から派遣された派遣職員を東京支所で引き取ることとなった。生協のことを全く知らない派遣職員を対象に1ヶ月にわたる特別カリキュラムを作成して、生協や店舗に関する理論と実務を教えて、毎日レポート提出で成長を促し、その後の衣料部門の商品担当や店長として活躍する道を拓くことができた。また毎週土曜の午後自主学習会を1年にわたり開催して、ここに参加した職員たちがその後の事業連合の商品担当として活躍することになった。

5 東京事業連合の頃

 70年1月から大学生協連東京支所は大学生協東京事業連合として事業を開始した。東京事業連合の正式名称は、「生活協同組合連合会 大学生活協同組合東京事業連合〈略称東京事業連合〉」というが、この名称は、当時厚生省、東京都との法人化交渉を担当された初代連合専務理事の森定進さん(元早稲田生協専務理事)がその交渉のなかで、生み出したものらしい。連合の組織性格は、フランチャイズチェーン組織をベースにしたものだが、これは、東京支所時代に学習を繰り返してきたチェーンストア理論の一つだが、これは、レギラーチェーンに比して、参加団体(会員生協)の主権・主体性を活かしながら、業務委託契約による事業と経営の共同化を進めるという特質をもっていた。とりわけ、会員生協の組合員規模によらずに、同じ商品が同じ価格で提供されることは、会員生協から喜ばれ、連合加入に伴って供給高は、30%から40 %の伸張を達成するなど、その後の北関東甲信越を含む東京地連全域の「全域同盟化」を促進する原動力となった。
 連合発足と同時に根本芳則さんが商品部長に私が業務部長になったが、75年まで5年間、会員生協の業務指導、店舗づくり、店長や職員教育をやっていました。その後、食堂部長として、新業態の開発、食堂経営の改革などを担当した。いまでも思い出すのは、業務部長着任早々に起きた「軍艦マーチ」事件である。当時、オーディオ製品は、破竹の勢いで伸張しており、販売促進用に「軍艦マーチ」を鳴らして売上達成の血判を押したと生協労連から非難された事件である。着任以前に企画されたこととは言え、メーカーの手法をそのまま取り入れた決起集会の非は免れられないことだったと思っている。しかし夢中で仕事ができる一番楽しい時代だった。
 この食堂部長時代の記憶としては、食堂改革に関わって外部コンサルタントとして(株)サニテックの宮川氏を招き、2年間にわたり毎月1回土曜午後に連続学習会を開催したことである。食堂店長は、厨房には馴染むが、会議はそもそも好きではない、まして学習会となればどうなるかは想像がつく思いだったが、店長達も必死の思いで参加してくれて、この学習を契機に店長どうしが共通の言葉で食堂事業を語れるようになった。

 またこの頃、新しいメニューと食材開発にあたって、農協との提携を重視した。77年頃から冷凍食材開発で佐賀経済連との提携をおこなった。これは、生協への理解、関東方面への物流ルートの存在もさることながら、決め手はピラフに適した硬質米の産地としてその品質向上に農家を巻き込んだ取り組みを旺盛にすすめていたことだった。また工場建設にあたり、大学生協の提案を積極的に受入れて頂いただけでなく、メニュー開発も一緒に行うことができた。当初は鶏肉の取引から始まったが、冷凍ピラフ、ハンバーグ開発など冷凍食品の開発に発展したことはご存じの通りである。

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6 いまのくらし

碁会所は、火曜と水曜が定休日。従って土日がかき入れ時になる。碁会所は、営業許可登録をして食事や飲み物を家内とも協力して提供している。
 碁会所はもちろん誰でも楽しむことができるが、会員となって一定の会費を払い、利用するという仕組み。現在は本因坊リーグ戦など総当たりの対局によるリーグ戦を楽しんでもらっている。もちろん将棋や囲碁に関する指導資格に基づく教室や個人レッスンなどもある。
 休みの日には、伊東にある別荘で過ごすが、主に菜園で無農薬野菜栽培に精を出し、家庭で使う野菜は自給できるようになった。車での往復などが大変だが、身体が動く限り、続けるつもりだ。
 また囲碁・将棋などの碁会所の同業者の協会や市の文化協会などの仕事もあり、なかなか忙しい毎日である。友の会の総会にも顔を出したいのだが、土日はそのような状況なので、参加できず申し訳ない気持ちだ。
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7 後輩へのメッセージ

 〜定年退職を迎える後輩へ
私は、実は日本生協連主催の第1回ライフビジョンセミナーの第一期生だった。定年後のライフビジョンは趣味と実益を兼ねた地域のコミュニティセンターとして「碁会所」を経営するというものだった。当初の計画では実家にもつ土地の売却金を想定した資金計画だったが、売却が進まず、ローン返済計画を変更することになったが、碁会所開設から今年でようやく15 年を迎えることができた。
 定年後の人生設計は、定年直前ではなくなるべく早くから準備することが必要だ。ライフビジョンを描くには、資金も大事だが、気力や体力がないとうまくできない。そのためには元気で体力のあるときに早めに準備すべきだと実感した。
 後年、講師として参加したライフビジョンセミナーでは、「人生80年時代」を生きるライフプランの三本柱として金(家庭経済)、身体(健康)、心(生き甲斐)の3Kの話しをした。定年を今後迎える職員は、是非この3Kからビジョンを描いてほしい。

 〜現職で頑張っておられる後輩へ〜
 一番伝いたいことは、やはり学ぶことを決して忘れるなということだと思う。
「教育と研究なくして新しい事業はあり得ない。猛烈に働くが勉強も怠らなかった。」(高村勣:元日生協会長)「教育なき生協は脳死である。」(英国生協学校校長ホールトン博士)と言う言葉をまつ迄もなく、なによりも生協の成長はそ組織の集団と個人の双方における学びあい以外にそのよりどころはないと思う。
 やはり第一線で働く職員の「学びたい」「役に立ちたい」という心的エネルギーを活かした組織とひとづくりをすすめてほしい。


編集後記

ありがとうございました。午後2時に碁会所にお邪魔し、インタビューを終えたのは5時を過ぎていた。名刺には、相模原囲碁将棋同業協議会、相模原囲碁将棋文化振興会、相模原市文化協会など会長や理事の肩書きが記載されている。地域の碁会所は半減し、3.11大震災以降は土日に足を運ぶ方が少なくなったという。やはり家族の絆を大切にしたいという思いが強まったのだと思う。
終わってからこれから時間があるかと尋ねられた。「ありますよ」と言うと「飲みに行こうよ」と誘われた。駅前の居酒屋で久し振りに元の上司と飲んだ。後輩に言い忘れたことがあるという。満々とした杯をしっかり乾してから「やはりこころざしだな」とぼっそり呟いた。
 過ぎ去った自分を呼び覚まさんとするその眼光にぎょとして自分の半生を振り返ってしまった。「そうだよな、生協はこころざしだけは負けちゃダメだよな」

 2012年8月8日 インタビュアー 大久保 厚

OBOG訪問:あの頃のこと、いまの暮らし、そして後輩へ!

1996年定年退職:本田 偲さん(退職時:法政大学生協)

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1 幼少の頃

 1929年(昭和4年)岡山生まれ、14歳の頃に皇国青年として、お国のためという意識から、戦局の悪化に伴って飛行兵の短期要請を図る乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)に親に内緒で入隊を志願、合格することができました。同期で志願・合格した友人が2年後特攻出撃して殉死されたと聴きました。

2 東大生協・早稲田生協・連合会・明治生協の頃(1959年〜1964年)

 戦後神戸で就職して以降、いろいろなことがありましたが、機会があって東京に来たとき、東大生協を訪問した折に全店を案内し、資料説明をしてくださったのが塚崎専務でした。その後東大生協にアルバイトとして入協しました。
 その後早稲田大学文学部のある4号館に生協本部を構え、当時小林敏男さんが責任者、森定さんが専務理事だった早稲田生協にお世話になり、大隈横丁食堂で2~3年仕事をしました。
 そのような経緯を経て、59年2月に労働組合活動で知り合った友人の紹介で東大生協に正規職員として入協することなり、その後の生協人生の第一歩となりました。
 翌年60年10月に法人化間もない連合会で仕事をすることになりました。丁度、杉本時哉さんから田中尚四さんに専務理事が交代する頃で、事務所を今の武道館のある九段代官町に構えた頃です。早稲田の斎藤嘉璋さんも学生理事として顔を出していた頃でした。
 その時は、安保闘争の真っ盛りの頃だったので、国会周辺にもデモにもよく行きました。6月15日衆議院南通用門から国会突入するデモを直前まで見ていましたが、その翌日樺美智子さんが亡くなられたことを知りました。
 当時の連合会は、衣料品は高木さんが担当し、私は食堂の食材仕入、主に野菜の買い付けを担当し、東大、早稲田、明治、法政などの食堂に配達していました。野菜の買い付けは今でも現存する新宿十二社の淀橋市場でした。下宿は早稲田の傍の戸塚二丁目でしたが、毎日の食材の仕入と配送業務は激務だったこともあり、身体を相当痛める結果になってしまいました。
 61年4月明治生協(駿河台)に購買部責任者として移籍することになりましたが、まもなく学生自治会主導の理事会となり、このため労組活動をやるようになり、総代会では田口富久治先生が、従業員として私が、新理事会の方針を徹底的に批判し、団体交渉では、新理事会との激しい論争などがありました。後に理事長、常務理事などが辞任にするなどのことが起こりましたが、そのようななかで、その年に結成された全国の大学生協労組(略称:大学生協全国労協)の初代事務局長となりました。
 そのためであったかと思いますが、明治生協理事会から「労組をやるために来てもらったわけではない、労組活動をやめろ」と言われたので、これは不当労働行為に当たると、ビラなどで抗議行動を行い、これを聴き知った労働法教員が「裁判になれば理事会が負けるだけ」と仲介をしてくださり、労組活動の保証を正式に認めて頂くことができたということがありました。
 その頃京都で開催された労協全国大会で松川事件の仙台高裁差し戻し審で無罪判決をニュースで聴いて大騒ぎになったことを覚えています。
 その後、和泉校舎に食堂・食品主任へ転任しましたが、奇しくも同郷の小出総長からお声を掛けて頂く一幕もありました。
 当時、明治生協は経営再建のために東大生協の人事支援を受けて理事会を運営していましたが、私が移籍した直後に理事長交代があり、学生主導で学生専務が就任し、その後外部から招いた専務理事も辞任するなど理事会の不正常な状態が続くこととなり、東大生協を含めて明治生協支援から離れざるを得ず、私も法政生協に移籍することになりました。

3 最初の法政生協・電通大生協移籍の頃(1964年〜1972年)

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 1964年1月1日付けで法政大学生協に異動しました。食中毒を契機とする大学からの契約解除を不服として係争していた富士見食堂(55年館食堂業者)との和議が成立し、生協運営となった55年館食堂、58年館食堂と、新規に生協へ運営委託された教職員食堂を統括する食堂主任としての仕事でした。
 市ヶ谷の生協施設は今でもそんなに立派ではありませんが、当時の厨房は灼熱地獄の如く、40℃を超える過酷な環境で、1日7000食を超える食数をこなしていましたが、まずはこの苛烈な厨房環境の改善を交渉することでした。58年館は7月1日以降しか送風稼働せず、それ迄の期間は稼働しない決まりになっていましたが、まず施設部ボイラー室に伺い、クーリングタワーによる送風冷房を実施して頂くよう日参しました。学生部交渉では、この高温・多湿極まる厨房環境では食中毒を引き起こしかねないとボイラー室からも指摘して頂き、その後気温が高くなったらすぐに食堂施設に送風するということになり、その後の冷房化のきっかけとなりました。
 私が法政生協に赴任した年は、工学部が麻布から現小金井校地に移転する時期と重なり、明治学院生協から小金井支部の支部長として迎えた渡辺さんとともに小金井校地での福利施設の実際の運用に関する工学部事務方との折衝に当たりました。主に購買店舗関係は渡辺さんが、食堂・食品関係は私が担当でした。店舗と食堂配置、食堂機材調整をはじめ、新規食堂開設には不可欠な食材の安定的確保と仕入取引先などの新規開拓をすすめました。当初取引先として選定した業者は、生協との取引契約に半信半疑でしたが、市ヶ谷校地で食堂を運営する55年館、58年館、教職員食堂を案内してからやっと信用して頂き、契約に漕ぎ付くことができました。開店の目処がたってから、市ヶ谷食堂業務に専念することになりました。
 その後渡辺さんがやめた後、3年位小金井支部長をやりました。当時の小金井校地となる小金井市梶野一帯は、今からは想像できないでしょうが、湿地帯だったらしく台風などで降雨が続くと半地下及び地下にある生協施設への冠水が絶えず、購買書籍は、地下店舗を頂いたが、乾燥機がないと壁面のコンクリからの湿気と水分吐露で、本が湿気で曲がったり商品が痛んだりという有様だった。また食堂施設も狭く、事務所も更衣・休憩室もない設計だったので、プレハブを設置して頂くなど学部事務にお願いし、実現する運びとなりました。
 また当時は工学部への生協入館に反対する先生も少なくなく、学部事務や先生へのご理解を頂くために取り組みましたが、細心の注意と行動が必要でした。その後、市ヶ谷に戻り、常務理事として、主に大学(総長、常務理事、各部局)と付属高との調整、総長宛文書の作成、業務改善と施設拡大を担当しました。
 その後72年に500万円前後の累積赤字を抱えていた電通大生協に移籍し専務理事として経営再建に当たることになりました。周辺からは3年では絶対無理と言われていましたが、赴任直後に開かれた総代会の場で3年以内に黒字にすると公言してしまい、責任を感じて、経営再建に当たり、2年で累積赤字を解消することができ、約束を果たすことができて良かったと思います。
 当時、経営改革を進めようとすると理事会、教職員理事からは「経営主義」と非難されましたが、仕事をきちっと進める職員とパートを中心に据えたマネジメント体制をめざし、業務の近代化と合理化を進めましたが、成功の原動力は、特に食堂部門の徹底した改革を先行させて、合わせて購買部門の改善が大きく前進した結果だと思います。

4 復帰し、定年を迎えた法政生協の頃(1975年〜1996年)

 千葉市民生協への支援人事で山田専務理事の移籍に伴い、法政生協の運営強化のために、75年11月に法政生協に復帰し再び常務理事に就任しました。77年からは連合代表監事になりました。当時の気持ちとしては、「大きな着物や風呂敷を広げるのではなく、身の丈にあった生協経営を」心がけたいというものでした。
 69年以降学園紛争で大学封鎖やロックアウトが続き、70年には海老原事件、松田事件などがあり、学生自治会過激派の内ゲバと暴力事件が重なり、法政生協は、食堂を始め生協の営業環境が悪化し、経営的に厳しい状況に陥りました。 紛争当時は大学本部部門は分散待避を余儀なくされており所在を公にできない状況下にありました。しかしそのような中でも、総長をはじめ、学生部長、施設部長、関連部局とはいつでも話しができる関係だけは持ち続けることができました。
 75 年当時は総長が中村哲(あきら)先生でしたが、学生自治会を名乗る過激派学生との団体交渉は、55年館1階の511教室で行われることが常でしたが、学生との対話の場から逃れることなく、いつも毅然とした態度に終始し、学生からのヤジや怒号、投擲にも屈することなく、泰然自若としたその姿は他者に深い感銘を与えるものであり、その後の法政大学の発展に大きな功績を残された総長の一人だと思います。中村総長をはじめ、歴代の総長とはつねに報告、連絡、相談できる関係を作れたことは、84年から始まる多摩キャンパス移転における福利施設への生協入館と運営に大きな礎になったと思います。
 84年多摩キャンパスへの移転の時も小金井移転と同様に、開設前から、食堂や自販機などの取引先開拓など諸準備を先発隊としてすすめる仕事でした。とりわけ、大学の校友会からの取引依頼、地元代議士からの要請、地元後援会からの要請など、主に大学外の関係者との調整、体育館などスポーツ施設や運動部合宿所の運営と対応などを行いました。大学と生協の基本契約を作成したこと、青木総長と船橋理事長の署名捺印を学生部、総務部のもと総長室で行ったことが大きな仕事でした。
 96年3月に65歳で退職になりましたが、現在生協の理事長をして頂いている鈴木先生(当時学生部長)との折衝が最後になりました。最近、私の通う病院にお兄さんの看病にきた鈴木さんから声を掛けられ、お会いして、懐かしいお話をさせて頂きました。

5 定年後の暮らしと後輩へのメッセージ

定年後は、水墨画教室、書道教室に通い、自宅で時間のある時は、水墨を描くか、書を書いていました。展示会への作品出品なども行い、新聞社や江戸川区などから賞を頂いたこともあります。現在は休止しております。
 また友人の経営する会社をボランティアでのお手伝いをしています。
 定年後は年相応にいろいろな病気にかかり通院することが多くなっています。
後輩の皆さんには、生協を通じて得た経験と知識を活かして、社会的なことへの関心をもって活動すること、またマスコミには騙されないこと、自分にできることは自分でやることがとても大事なことだと思います。
 二番目は、健康を第一に過ごすこと。定年後の暮らしは、それまでの会社中心の生活からまったく違う生活スタイルと暮らしになるので、あらかじめ、定年前に、定年後の生活スタイルと自分でやりたいことを見つけておくこと。自分の時間の半分位は、新しいことなどに挑戦する気持ちが必要だと思います。
 それから、物事を複眼でみること、客観的に自分をみて自分と向き合うことが必要になると思います。これからの定年後の生活は年金や介護など大変な状況もありますが、しっかり生きていってほしいと思います。
本田水墨画2.psd水墨画展出品作品本田水墨画1.psd水墨画展出品作品
編集後記:
 ありがとうございました。約2時間45分のインタビューでした。戦後から定年退職迄の期間とはいえ、それはすでに60年以上の歳月が流れている。記憶や前後関係を辿りながら、最も思い出に残るトピックを中心にお話頂いた。本田さんといえば法政生協の方という記憶しかない私には、東大生協に正式に就職する前に早稲田生協に在籍していたこと、そして九段の連合会仕入部に所属し、毎日淀橋市場に通い、野菜の買い付けと食材配送をしていたこと、明治生協で労組活動でも活躍され、初代の大学労協事務局長であったこと、そして電通大生協の再建に尽力されたということなど、始めて聞かされることばかりである。事業連合結成後に就職し会員間生協だけの連帯がどのようなものかを知らない私達の世代には、連帯とは人事派遣を常とする連帯、つまり人と人との連帯だったことを改めて痛感した。その基礎の上に今日の大学生協が存在することを肝に銘じたいと思う。
(2012年6月12日インタビュアー:大久保 厚)

OBOG訪問:あの頃のこと、いまの暮らし、そして後輩へ!

1996年定年退職:本田 偲さん(退職時:法政大学生協)

本田写真2.jpg
1 幼少の頃

 1929年(昭和4年)岡山生まれ、14歳の頃に皇国青年として、お国のためという意識から、戦局の悪化に伴って飛行兵の短期要請を図る乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)に親に内緒で入隊を志願、合格することができました。同期で志願・合格した友人が2年後特攻出撃して殉死されたと聴きました。

2 東大生協・早稲田生協・連合会・明治生協の頃(1959年〜1964年)

 戦後神戸で就職して以降、いろいろなことがありましたが、機会があって東京に来たとき、東大生協を訪問した折に全店を案内し、資料説明をしてくださったのが塚崎専務でした。その後東大生協にアルバイトとして入協しました。
 その後早稲田大学文学部のある4号館に生協本部を構え、当時小林敏男さんが責任者、森定さんが専務理事だった早稲田生協にお世話になり、大隈横丁食堂で2~3年仕事をしました。
 そのような経緯を経て、59年2月に労働組合活動で知り合った友人の紹介で東大生協に正規職員として入協することなり、その後の生協人生の第一歩となりました。
 翌年60年10月に法人化間もない連合会で仕事をすることになりました。丁度、杉本時哉さんから田中尚四さんに専務理事が交代する頃で、事務所を今の武道館のある九段代官町に構えた頃です。早稲田の斎藤嘉璋さんも学生理事として顔を出していた頃でした。
 その時は、安保闘争の真っ盛りの頃だったので、国会周辺にもデモにもよく行きました。6月15日衆議院南通用門から国会突入するデモを直前まで見ていましたが、その翌日樺美智子さんが亡くなられたことを知りました。
 当時の連合会は、衣料品は高木さんが担当し、私は食堂の食材仕入、主に野菜の買い付けを担当し、東大、早稲田、明治、法政などの食堂に配達していました。野菜の買い付けは今でも現存する新宿十二社の淀橋市場でした。下宿は早稲田の傍の戸塚二丁目でしたが、毎日の食材の仕入と配送業務は激務だったこともあり、身体を相当痛める結果になってしまいました。
 61年4月明治生協(駿河台)に購買部責任者として移籍することになりましたが、まもなく学生自治会主導の理事会となり、このため労組活動をやるようになり、総代会では田口富久治先生が、従業員として私が、新理事会の方針を徹底的に批判し、団体交渉では、新理事会との激しい論争などがありました。後に理事長、常務理事などが辞任にするなどのことが起こりましたが、そのようななかで、その年に結成された全国の大学生協労組(略称:大学生協全国労協)の初代事務局長となりました。
 そのためであったかと思いますが、明治生協理事会から「労組をやるために来てもらったわけではない、労組活動をやめろ」と言われたので、これは不当労働行為に当たると、ビラなどで抗議行動を行い、これを聴き知った労働法教員が「裁判になれば理事会が負けるだけ」と仲介をしてくださり、労組活動の保証を正式に認めて頂くことができたということがありました。
 その頃京都で開催された労協全国大会で松川事件の仙台高裁差し戻し審で無罪判決をニュースで聴いて大騒ぎになったことを覚えています。
 その後、和泉校舎に食堂・食品主任へ転任しましたが、奇しくも同郷の小出総長からお声を掛けて頂く一幕もありました。
 当時、明治生協は経営再建のために東大生協の人事支援を受けて理事会を運営していましたが、私が移籍した直後に理事長交代があり、学生主導で学生専務が就任し、その後外部から招いた専務理事も辞任するなど理事会の不正常な状態が続くこととなり、東大生協を含めて明治生協支援から離れざるを得ず、私も法政生協に移籍することになりました。

3 最初の法政生協・電通大生協移籍の頃(1964年〜1972年)

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 1964年1月1日付けで法政大学生協に異動しました。食中毒を契機とする大学からの契約解除を不服として係争していた富士見食堂(55年館食堂業者)との和議が成立し、生協運営となった55年館食堂、58年館食堂と、新規に生協へ運営委託された教職員食堂を統括する食堂主任としての仕事でした。
 市ヶ谷の生協施設は今でもそんなに立派ではありませんが、当時の厨房は灼熱地獄の如く、40℃を超える過酷な環境で、1日7000食を超える食数をこなしていましたが、まずはこの苛烈な厨房環境の改善を交渉することでした。58年館は7月1日以降しか送風稼働せず、それ迄の期間は稼働しない決まりになっていましたが、まず施設部ボイラー室に伺い、クーリングタワーによる送風冷房を実施して頂くよう日参しました。学生部交渉では、この高温・多湿極まる厨房環境では食中毒を引き起こしかねないとボイラー室からも指摘して頂き、その後気温が高くなったらすぐに食堂施設に送風するということになり、その後の冷房化のきっかけとなりました。
 私が法政生協に赴任した年は、工学部が麻布から現小金井校地に移転する時期と重なり、明治学院生協から小金井支部の支部長として迎えた渡辺さんとともに小金井校地での福利施設の実際の運用に関する工学部事務方との折衝に当たりました。主に購買店舗関係は渡辺さんが、食堂・食品関係は私が担当でした。店舗と食堂配置、食堂機材調整をはじめ、新規食堂開設には不可欠な食材の安定的確保と仕入取引先などの新規開拓をすすめました。当初取引先として選定した業者は、生協との取引契約に半信半疑でしたが、市ヶ谷校地で食堂を運営する55年館、58年館、教職員食堂を案内してからやっと信用して頂き、契約に漕ぎ付くことができました。開店の目処がたってから、市ヶ谷食堂業務に専念することになりました。
 その後渡辺さんがやめた後、3年位小金井支部長をやりました。当時の小金井校地となる小金井市梶野一帯は、今からは想像できないでしょうが、湿地帯だったらしく台風などで降雨が続くと半地下及び地下にある生協施設への冠水が絶えず、購買書籍は、地下店舗を頂いたが、乾燥機がないと壁面のコンクリからの湿気と水分吐露で、本が湿気で曲がったり商品が痛んだりという有様だった。また食堂施設も狭く、事務所も更衣・休憩室もない設計だったので、プレハブを設置して頂くなど学部事務にお願いし、実現する運びとなりました。
 また当時は工学部への生協入館に反対する先生も少なくなく、学部事務や先生へのご理解を頂くために取り組みましたが、細心の注意と行動が必要でした。その後、市ヶ谷に戻り、常務理事として、主に大学(総長、常務理事、各部局)と付属高との調整、総長宛文書の作成、業務改善と施設拡大を担当しました。
 その後72年に500万円前後の累積赤字を抱えていた電通大生協に移籍し専務理事として経営再建に当たることになりました。周辺からは3年では絶対無理と言われていましたが、赴任直後に開かれた総代会の場で3年以内に黒字にすると公言してしまい、責任を感じて、経営再建に当たり、2年で累積赤字を解消することができ、約束を果たすことができて良かったと思います。
 当時、経営改革を進めようとすると理事会、教職員理事からは「経営主義」と非難されましたが、仕事をきちっと進める職員とパートを中心に据えたマネジメント体制をめざし、業務の近代化と合理化を進めましたが、成功の原動力は、特に食堂部門の徹底した改革を先行させて、合わせて購買部門の改善が大きく前進した結果だと思います。

4 復帰し、定年を迎えた法政生協の頃(1975年〜1996年)

 千葉市民生協への支援人事で山田専務理事の移籍に伴い、法政生協の運営強化のために、75年11月に法政生協に復帰し再び常務理事に就任しました。77年からは連合代表監事になりました。当時の気持ちとしては、「大きな着物や風呂敷を広げるのではなく、身の丈にあった生協経営を」心がけたいというものでした。
 69年以降学園紛争で大学封鎖やロックアウトが続き、70年には海老原事件、松田事件などがあり、学生自治会過激派の内ゲバと暴力事件が重なり、法政生協は、食堂を始め生協の営業環境が悪化し、経営的に厳しい状況に陥りました。 紛争当時は大学本部部門は分散待避を余儀なくされており所在を公にできない状況下にありました。しかしそのような中でも、総長をはじめ、学生部長、施設部長、関連部局とはいつでも話しができる関係だけは持ち続けることができました。
 75 年当時は総長が中村哲(あきら)先生でしたが、学生自治会を名乗る過激派学生との団体交渉は、55年館1階の511教室で行われることが常でしたが、学生との対話の場から逃れることなく、いつも毅然とした態度に終始し、学生からのヤジや怒号、投擲にも屈することなく、泰然自若としたその姿は他者に深い感銘を与えるものであり、その後の法政大学の発展に大きな功績を残された総長の一人だと思います。中村総長をはじめ、歴代の総長とはつねに報告、連絡、相談できる関係を作れたことは、84年から始まる多摩キャンパス移転における福利施設への生協入館と運営に大きな礎になったと思います。
 84年多摩キャンパスへの移転の時も小金井移転と同様に、開設前から、食堂や自販機などの取引先開拓など諸準備を先発隊としてすすめる仕事でした。とりわけ、大学の校友会からの取引依頼、地元代議士からの要請、地元後援会からの要請など、主に大学外の関係者との調整、体育館などスポーツ施設や運動部合宿所の運営と対応などを行いました。大学と生協の基本契約を作成したこと、青木総長と船橋理事長の署名捺印を学生部、総務部のもと総長室で行ったことが大きな仕事でした。
 96年3月に65歳で退職になりましたが、現在生協の理事長をして頂いている鈴木先生(当時学生部長)との折衝が最後になりました。最近、私の通う病院にお兄さんの看病にきた鈴木さんから声を掛けられ、お会いして、懐かしいお話をさせて頂きました。

5 定年後の暮らしと後輩へのメッセージ

定年後は、水墨画教室、書道教室に通い、自宅で時間のある時は、水墨を描くか、書を書いていました。展示会への作品出品なども行い、新聞社や江戸川区などから賞を頂いたこともあります。現在は休止しております。
 また友人の経営する会社をボランティアでのお手伝いをしています。
 定年後は年相応にいろいろな病気にかかり通院することが多くなっています。
後輩の皆さんには、生協を通じて得た経験と知識を活かして、社会的なことへの関心をもって活動すること、またマスコミには騙されないこと、自分にできることは自分でやることがとても大事なことだと思います。
 二番目は、健康を第一に過ごすこと。定年後の暮らしは、それまでの会社中心の生活からまったく違う生活スタイルと暮らしになるので、あらかじめ、定年前に、定年後の生活スタイルと自分でやりたいことを見つけておくこと。自分の時間の半分位は、新しいことなどに挑戦する気持ちが必要だと思います。
 それから、物事を複眼でみること、客観的に自分をみて自分と向き合うことが必要になると思います。これからの定年後の生活は年金や介護など大変な状況もありますが、しっかり生きていってほしいと思います。
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編集後記:
 ありがとうございました。約2時間45分のインタビューでした。戦後から定年退職迄の期間とはいえ、それはすでに60年以上の歳月が流れている。記憶や前後関係を辿りながら、最も思い出に残るトピックを中心にお話頂いた。本田さんといえば法政生協の方という記憶しかない私には、東大生協に正式に就職する前に早稲田生協に在籍していたこと、そして九段の連合会仕入部に所属し、毎日淀橋市場に通い、野菜の買い付けと食材配送をしていたこと、明治生協で労組活動でも活躍され、初代の大学労協事務局長であったこと、そして電通大生協の再建に尽力されたということなど、始めて聞かされることばかりである。事業連合結成後に就職し会員間生協だけの連帯がどのようなものかを知らない私達の世代には、連帯とは人事派遣を常とする連帯、つまり人と人との連帯だったことを改めて痛感した。その基礎の上に今日の大学生協が存在することを肝に銘じたいと思う。
(2012年6月12日インタビュアー:大久保 厚)

OBOG訪問:あの頃のこと、いまの暮らし、そして後輩へ!

2002年定年退職:中村 常助さん(東京事業連合商品部)

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1 退職前後のこと

 退職前の仕事はISO取得だったが、みやぎ生協の大原さんにとても世話になった。伊藤光男さんもきて一緒にやった。面白かったことは、所沢センターの冷凍倉庫申請(冷高圧AからBへ)の変更で年間1200万円(60%削減)の費用を削減したこと、東京電力とはなかなか埒があかずに訴訟をも辞さずに担当者と交渉したことなどだ。
 ISOの前は、1990年頃から「特販事業部」のカタログ事業を担当した。しかし事業的には合わない状況だった。定年の前には、14001だけでなく9001もやろうと提案した。定年後は、ソニーの下請け会社で製造物規格に関する検証をする仕事を5年位した。あの亀の子マークのベンゼン環も勉強した。 
2007年完全リタイヤ。商品部時代に腎臓を患って人工透析を始めた。あの頃の電気・オーディオメーカーとの商談、付き合いがすざましかった。最盛期のフェアは7億規模の売上があった。事業部直の交渉をしてから、販社及び担当との商談をはじめた。92年頃にコンピュータ担当の前田さんに引き継いだ。

(奥さんがお茶を立ててくれた。奥さんが表千家、ご主人が裏千家の茶道を始めているらしい。部屋のなかで、公民館で焼いている陶芸作品を紹介しながら、茶陶などの話しを伺った。)

2 作陶との出会い

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(抹茶を頂く作法として)まずお茶を立てて頂いた方にまず感謝して、二回廻し茶碗に描かれた絵を触れずに持つこと。陶芸は、まず粘土を選択し素焼きして釉薬を懸けて本焼きをする。陶芸を始めるに当たって、まず師匠に付き、5年ほど修行し、陶芸サークルを立ち上げ、現在週二回程一緒にやっている。最初から茶陶を作陶している。轆轤(ろくろ)廻しも大変難しい技術だが、最も難しいのは色の出し方だ。釉薬と温度との関係を見通すことがきわめて至難の技。自分の思うような色がなかなか出ない。
 きっかけは、京都三条縄手などに良く行く骨董品好きだった高野くん(早稲田生協から連合、連合会商品部)と窯場を見に一緒に行ったことだった。陶芸との最初の出会いは、窯場で伊藤久美栄さんと半年後に製品となる2つ30万円のお猪口を予約したこと。商品部時代、取引先の三洋電機事業部長から陶芸で身を立てるとして退職し、益子に7年、信楽に3年修行し、故郷の福岡直方(大関魁皇の出身地)に、瓦斯窯、登り窯、灯油釜をつくった田中光顕さんという方は凄い。この世界では、全日本作陶展で5年連続入賞しないと正会員になれない。要は名前で価格が決まる世界だ。
 (田中さんが日本橋三越に出展した作品展の本をみせて)一品60万円は下らない。現在、この作品を模倣して、花瓶を作陶している。田中さんの特徴は「貫入(かんにゅう)」と言い、縦に垂直に入るヒビを模様としている。1300度から一気に下げて、ヒビを入れるとのこと。100個で1個できるかできないかという希有な作品だ。
(このあと作品展本の作陶評がはじまる。肩付(茶入)と城を交換した話し、千利休の話、藁を懸けて焼く作品、織部焼きのこと、陶芸オブジェのこと、塩で焼く作陶のことなどなど)

3 早稲田生協の頃
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 生まれは、京都の右京区花園。学齢前におやじの都合で徳島市に引っ越して、高校を卒業した翌年の昭和35年春に上京した。高校を卒業してから1年間は徳島市にある法律事事務所でアルバイトしていた。当時は徳島刑務所に書類を持っていくと手当が付き、いい収入になった。三男だったので自立して生きていくしかないと、東京に行くつもりはなかったが、弁護士になりたいと上京を決意した。
 大学進学と学資貯金のために、生協に就職し勉強しはじめたが、当時の給与(額面8000円)では学資どころではない。下宿相場が1畳500円で3畳1500円だった。当時あった店舗の宿直勤務(1日300円)も引き受けて、なんとか食べて働くことがやっという状態だった。当時労組のデモスローガンが「新宿から1万円以下の労働者をなくせ」というものだった。
 入協した当時の早稲田生協の専務理事は、森定さん。教育学部地下(当時三号館)の購買部に配属となった。購買部は岩崎さん(マダム)が購買部主任(店長)で神谷さん、阿部さんがいた。書籍主任(店長)が先日亡くなられた佐藤光博さんだった。食堂は、木造プレバブづくりの「大隈横丁」食堂と言われていた。大凡の位置は大隈庭園前に早稲田マーク商品を販売する「Uni. Shop & Café 125」の北側あたりだ。食堂には調理師に宮さん、田沢さんがおり、食べることを含めていろいろお世話になることばかりだった。その翌年に購買部配属として入協した奥さんとは、その時に知り合うこととなった。

 4 東京支所(連合結成前)時代の頃
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 上条さんが上司で、早稲田生協で商品部の仕事をしていた時に地連同盟化(連合づくり)の一環として、東京支所の物流倉庫を柏木に移転した頃(1966年頃)の東京支所に移籍した。上条さん、今井さんと一緒だった。
 商品部時代は辛く苦しいこともあったが、面白いことも多かった。取引先の皆さん全てが本当に仕事とその後の人生の財産だった。当時はメーカーからは全く信用させれていないどころか、生協は左翼の学生運動に資金を廻す団体という風評が強かった。ソニーは門前払い、松下は勿論、関東の東芝、日立などは棒にも箸にもかからない、ビクターがやっとという時代だった。
 バッタとの付き合いが始まったのもその頃だった。秋葉原では、1500円くらいの電気ポットが800円で売っているのをみて、腰を抜かす程びっくりし、奮起して御徒町の見ず知らずの電気街に飛び込み、いろいろ売り買いを覚えた。当時の朝日無線(ラオックス)に知り合いがいて、バッタ屋を紹介され、仕入の仕方なども教えてもらった。つまり東芝からテープレコーダー1000台を買い、900台を100円上乗せしてバッタ屋に流し、その差額分を原価に算入して、当時7980円売価の商品を6980円で売ることができた。しかし上司からは、「なんで1000台も仕入れるんだ」とこっぴどく叱られたが、100台は完売できた。
 そんな時に知り合ったのが、城南電気の宮路年雄さんだった。レッドパージで国鉄職員を解雇された経歴をもつ宮路さんは、当時バッタ屋の配送担当だったが、近く電気店を開業するという。宮路さんには洗濯機、冷蔵庫などの下宿用品を含めて電機製品の仕入に多くのご協力を頂くことになった。
 当時は、ソニーとの商談では「金をおいていけ」と言われる時代だった。代金回収の保証がないとの判断から、差し出す現金500万円の内、生協には400万円分の商品しか寄越さなかった。つまり差額100万円は、差入保証金のようなもので、ソニー側担保に取られる条件だった。その後和知稔総務部長の時代にソニーからの保証金返還と金額交渉が持ち上がったが、利子9%前後を付けて4700万円強を生協側に返済して頂く曰く付きのお金となった。
 宮路さんからは「1円を大切にできない奴はだめ!」「1円と壱千万円は同じ」ということを教えて頂いた。つまり「1個で千円を儲けるのではなく、千個で千円を儲けろ」ということだ。
 あの頃は、年商150億円規模となる可能性を秘めたオーディ事業の最盛期だった。中野会館(元大学生協連会館、現在東京連会館)でオーディオフェアを開催したころ、フェア期間の売上が7億円を超えた時があった。当時連合経理の中島喜美恵さんが現金管理を手伝ってくれたのだが、「お金を数える暇がないのでお札を一時保管する場所はないか」と頼まれた。仕方なくドラム缶にお札を入れて足を踏みつけてお札を収納したことを今でも覚えている。
 永野さん(朝霞流通→所沢センター受発注担当)には本当に世話になった。なにしろ記憶力がすごかった。どんな商品を何処のお店に何台納品したか、現在どの位在庫があるかという情報を正確に把握していた。だから店舗間の在庫調整がとてもスムーズにできて有り難かった。

5 現在の暮らしと後輩へのメッセージ
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 20年位前に風邪引きから始まり無理を重ねて過労で一度倒れた。それから肝臓を患い今も通院(人口透析〜週3回/月・水・金/1回4時間)しているが、それが一番やっかいなこと。現役時代の不摂生の付けだと思っている。
 通院以外では、陶芸(公民館)が週1回。これ以外に太極拳(公民館)、俳句(NHK通信教育)、茶道(裏千家)などが主だ。「歩こう会」も誘われているが、ここは大変ボランティアが盛んな地域で、最初は近くの老人ホーム(25年前から)へのボランティアから、それから障害者施設訪問もして、健康麻雀、ゲートボールなどをしている。
 退職金の使い方をしっかり考えた方がよい。自宅を持っている人は維持費とか固定資産とか月次以外で掛かる費用のことを考えた方がよい。それから家にいる時間が増えるのだから、余暇の時間をいかに過ごすかを考えておくこと。そして定年退職後は可能な限り仕事をすることをすすめたい。収入という意味だけでなく、ひとの関係が人間に不可欠だからだ、言葉を失しなわないことが大切だと思う。
 上司で先に退職された伊藤久美栄さんからこう言われた。「俺はレールを引いたが、おまえは電車を作るだけでなく、電車を動かす運転できる職員を作れ。それで自分の退職金をつくれ」と。
 先日(2月13日)亡くなられて佐藤光博さんからこう言われた。「気が合う奴とは話ししなくていい。「おはよう」だけでよい。その分、気の合わない奴とは毎日必ず話しをすることを心がけろ」と。人の育て方として学んだ。担当者の育て方も同じだと思う。いまでも本間くん(東大本郷購買部)とは付き合いがあって、いろいろ連れ出してくれるので有り難いと思っている。

 現在の事業環境は厳しいと思うが、やはり新たな事業開発をしないといけない。また交差比率主義をあまりに重視した結果、在庫をもって店舗展開する事業分野の成長が止まり、成長力が阻害される状況に陥ったと思う。最近メーカーから事業連合は変わってしまったと言われた。どうしてかと聴いたら、「売れ残ったら、在庫をとってくれますか」という交渉が常になったと言う。商品毎の粗利率もあるが、基本は実売による粗利額だと思う。
 ひととの繋がりがすべてなんだと思う。これを財産としないといけないが、続いていないように思う。人との関係を失わないようにしっかりやってほしいと思う。


編集後記:
 ありがとうございました。約2時間30分のインタビューだった。殆ど中村さんが話し詰めだった。しかし通院で週3回4時間というハンデを抱えながら、老人ホームや障害者施設へのボランティア、作陶、俳句、茶道など、とても充実した余生をしっかりと生きている姿を垣間見ることができた。
 しゃべっておきたい現役時代のことが沢山あるのだろうと想像できた。同時代をともにした役職員であれば、とてもリアルにその時代を再現できそうな気がした。なにかこのかけがえのない生き様を歴史に刻む取り組みがあってもいいと思った。(2012年4月17日インタビュアー:大久保 厚)